偏差値50台前半の地方高校から、大都会の中堅大学に入学した私でしたが、入学早々自分の無力さを味わうことになります。
◆ 大学の講義についていけない!
大学の講義は、基本一コマ90分です。
入学直後の私がまず初めに体感したのは「授業についていけない」ことでした。
1分1秒が針の筵のように苦痛で重く感じたのです。
教授の話す内容に耳を傾けることで精いっぱいで、理解などは二の次でした。
極端な言い方をすれば、母国語ではなくて外国語を常に聴いているような気分に陥る講義もありました。
大学の講義では、小中高時代とは異なって、教授の板書は最少限で、教授の話に集中しながら、自分で必要だと思えるポイントを把握して、ノートに取る必要がありました。
たまに教授が講義の理解度を試すかのようにランダムで学生を当ててくるのですが、どうか自分にだけは回ってこないよう祈る様に念じていました。
毎回がこんな調子ですから、講義内容をしっかりと理解できているはずもありません。
◆ 自分だけ・・・・・・から、無気力に陥ってしまう
きっとこれだけの学生数だから、私のような人間が他にもいるはずだと思っていたのですが、みな涼しい顔で難なく理解しているようでした。
講義で教授に指摘された時も、自分だったら答えられなかった質問に対して、周りの同級生達はしっかりと自分の考えを述べていました。
追いつめられた私は抱えきれずに、プライドを捨てて友人の一人に、弱音を吐いたことがありました。
「大学の講義難しすぎでついていけないよ」
すると友人は怪訝そうな顔をして、
「え?そんな風に感じてたの?難しく考えすぎだよ。そのうち慣れるよ」
と、涼しい言葉をかけてくれました。
しかしながら、当時の自分には、余計距離が広まってしまったような焦燥感や劣等感が募っただけでした。
勉強についていけない焦りや、やるせなさは、周りの人間には理解してもらえる問題ではないのです。
私のアイデンティティを唯一支えていたのは、高校時代で常に上位に位置していた過去の栄光です。
井の中の蛙だったことをこの世界で痛感するわけですが、プライドが廃っていなかった分、これ以上自分の弱さを他人に打ち明けることはできませんでした。
周りは一般入試組が大半の中、推薦組で入った自分は、基礎学力がままならなかったため、置いてきぼりにされたような挫折感に変わっていきました。
私に不足していたのは「基礎学力」でした。
大学入学までに体得していた読解力や一般教養力が周囲の学生達と比較して圧倒的に欠如していたのです。
けれども、そんな自分を周りに晒すわけにはいけません。
中学時代のように、自分の弱みは見せたくないとい虚栄心が私を覆いました。
そうやってわかったつもりを重ねていく自分は、表向きでは平然を装いながら、自分の殻に閉じこもっていくようになったのです。