前回登場したカーネル・サンダースの他にも、想像を絶するほどの苦境にめげずに初志貫徹させたアメリカの有名俳優男性がいらっしゃいます。
その名はシルヴェスター・スタローン。
代表作は言わずと知れている
です。
2015年12月には、ロッキーの続編である『クリード』が公開されたことでも話題になりました。
7月6日で70歳になりますが、肉体を鍛えつつ現役でアクション俳優として活動を続けています。
そのシルヴェスター・スターローンが1976年にロッキーでアカデミー賞最優秀作品賞を受賞して、一躍時の人として栄光を手にするまでに、障害と貧困に苦しみながら度重なる試練を乗り越えてきたのです。
これから彼が鮮烈なデビューを果たすまでの半生をまとめてご紹介させていただきます。
★幼少時代から高校時代まで
⇒生誕と同時に、言語障害というハンディを負うことになる。
出産時に産科医が鉗子の扱いを誤り、顔面の左側(特に唇、顎、舌)の神経が傷つけ られたため、言語障害(舌足らずな発音)と下唇の下垂という症状を抱えることになります。
口びるや舌、あごに部分的なマヒが残っており、彼の発音には不明瞭なところがあります。
そのため、コミュニケーションが上手く行かない部分もあり、幼少時代からいじめを受けるようになったそうです(今でもトラウマとして残っているようです)
内向的な性格になってしまい、空想に耽ったり、漫画や映画の世界に傾注するようになりました。
彼の両親は長い間関係が悪く、喧嘩が絶えない日々だったようです。
12歳の時、ついには離婚するようになりますが、彼は不良の道を選ぶようになり、学校からも何度も処分を受けるなどして、荒れくれた思春期を送っていたようです。
高校時代には、フェンシングやフットボール、陸上競技の円盤投げに打ち込んでおり、母の運営するボクシングにも打ち込んでいたようで、アクションスターの下積みはこの頃から培われていたようです。
15歳の頃には、母親と新しく再婚した夫と一緒に暮らし始めたそうです。
★大学中退から俳優を目指してオーディションを受け続ける日々
高校を卒業した後、彼はスイスにあるアメリカン・カレッジの奨学金を受けることになります。
そこで、陸上の女子のコーチを引き受けて指導する日々を送っていました。
演劇も勉強し、大学で製作されている演劇、「セールスマン、アーサー・ミラーの死」で主役を演じたりもしました。
その後、アメリカに帰国して、マイアミ大学で演劇の勉強を始めます。3年間同大学の演劇学科で学びましたが中退します。
本格的に俳優の道一本に絞って新たなステップを踏もうとするのですが、オーディションを受けても受けても結果はNOの連続。
合計で54回も不合格を経験しています。
ここでも顔面麻痺による演技力の限界や、 あまりにも典型的なシチリア人の風貌のためというのが影響したようです。
ついには、家賃も払えず、アパートから追い出され、ニューヨークのバス停で何週間もホームレス状態を続けながらオーディションを受け続けていました。
★脚本を映画会社に売り込んでアプローチを変えてみる
生活費を捻出するために、用心棒やエキストラのような脇役やポルノ映画まで出演して、なんとかお金を貯めて小さなアパートを借ります。
しかし電気代が払えず、部屋の中が寒すぎたため、暖房設備がある図書館に通っていました。
そこで彼はエドガー・アラン・ポー(小説家)の本に出会い、ライターのセンスを磨いたようです。
どんなに貧乏でも、結果が出なくても、彼は俳優道を諦めませんでした。
ここまで先の見えなくて困窮生活が続いていれば、夢を諦めて、他の職業に転職するという選択もあったのですが、ここで挫折したら、二度と俳優にはなれないという並々ならぬ覚悟があったようです。
彼と愛犬はニューヨークからカリフォルニアに引っ越しますが、そこでもまったくオーディションには受かりませんでした。
ここで視点を変えることとなる転機が訪れました。
29歳のある夜、彼はモハメド・アリ対チャック・ウェップナーのボクシングマッチを観ます。
ウェップナーはアリにぼこぼこにされているのにもかかわらず、どんなに打たれても前に進みました。
それに感動した彼は家に戻ってスタローンは3日間、家にひきこもって脚本を書き上げました。
そして出来た作品をにスタジオに打ち込みに行きます。
それこそがまさにロッキーの原点になるわけです。
けれども現実は非情です。
そこで待っていた返事はおなじみの「NO」。
来る日も来る日も映画会社に通っては売り込みますが、NOの連続でした。
オーディション時代と併せて1000回以上NOを突きつけられたという説もあるくらいです。
ロッキーの脚本は馬鹿にされてけなされていたようでした。
売り込み生活は数ヶ月以上に渡り、所持金はほぼゼロに。
一日の食事は缶詰一缶を愛犬と半分ずつ食べていました。
ついに、彼は断腸の思いで、相棒である愛犬を売ることにしました。
50ドルで愛犬を手放した後、彼は大泣きで崩れ落ちたようです。
そこまで全てを犠牲に払っても、俳優道をドロップアウトしませんでした。
続く