先日、生き方に自信がないことで、就職活動に踏み切れない若者と面談を行いました。
これは仕事上の件ですが、自分に自信を持てないために、自分の殻に閉じこもっている人間については、決して他人事ではないのではないでしょうか。
かくいう私も、常に自信を持てずに、いつも他人と比べてはできない理由を探しては、やさくれている時期が長いこと続いていました。
今回は、学生時代を振り返ってみますので、よろしければ私のダメっぷりを追体験いただければ幸いです。
まずは、小・中学校の義務教育時代です。
小学校時代から既に私の勉強嫌いはスタートしていました。
勉強そのものに興味を持てずに、ゲームや外遊びに夢中になっていた私でしたが、成績が良くないことで危機や焦りを痛感する機会は多くなかったと記憶しています。
転機を迎えたのは、中学校に入学してからです。
進級するにつれて覚える内容が難しくなり、勉強量も増加する圧力を感じながら、「こんなに勉強をして将来なんの役に立つんだ」と反骨精神をむき出しにしながら、勉強から逃げていました。
かろうじて全体では学年の真ん中くらいの成績を維持していましたが、大の苦手の数学や英語は、5点や3点というリアルドラえもんに登場するのび太のような点数を重ねていました。
「そこまでして勉強するメリットはない」と結論付けた15歳の夜、常に何かに怯えながら粋がっていましたが、小学時代から勉強から目をそむけてきたツケとして、自信を持てる瞬間はほとんどなかったです。
どこの世界を見渡しても、世の中優秀な人はキリがないというほど存在しており、思春期までの私はやさくれていました。
何事も本気でやり抜いた経験があまりにも少なかった私は、いつも彼らと比較しては、相手の粗を探したり、できない言い訳ばかりを考えるような卑屈な人格が形成されていました。
目の前の課題から逃げ続けて、先延ばしを繰り返した末に、自分だけが取り残されてしまうとてつもない焦燥感に苛まれる未来が待っていた時機は、大学入学直後でした。
推薦入試でそれほど苦労もせずに入学した私と、一般入試合格が大半を占める周りの同級生達とのレベルの差を否応なく目の当たりにすることになったのです。
それまで長期的な勉強に取り組んだ経験が皆無だった私に待っていたのは、通常講義のスピード感についていけずに、内容がほとんど頭に入らないのです。
1コマ90分が長すぎて、終わる頃にはクタクタになっていました。
一度、周りの同級生たちが同じように感じていないかと探りを入れましたが、「授業が長い」という声が出たものの、「内容が難しすぎてわからない」という意見は一切ありませんでした。
まさに、リアル版アリとキリギリスのように、小学校時代からろくに勉強をせずに楽な方面ばかりなんとなく進んできた自分と、コツコツと勉強を重ねてきた周囲の同級生との差を痛感せずにはいられませんでした。
ずっと、都合の悪いことから目をそむけ続けたきた自分ですが、ここに来て初めて、「このままでは通用しない」と、とてつもない焦りに支配されるようになりました。
「無力感」や「焦燥感」をとくと味わったことで、勉強嫌いだった私が自発的に勉強を開始する契機となりました。
マイナスからのスタートだと、どこから始めたら良いのか方向性を見出しにくいですが、過去を振り返ってみて、唯一と言っていいほど結果を残せたのが「漢字」でした。
小学校時代に、なぜか漢字テストの成績だけ学年一位で、小さな成功体験として唯一残っていたのです。
ですが、過去の栄光にすがって努力を怠っていた私は、その数年後に形勢逆転する未来が待っていました。
中学3年時に、初めて漢検3級を団体受検したのですが、一切勉強をせずに、過去の漢字王の残像に溺れながら当日を迎えました。
結果は散々なもので、200点中105点。
半分しか取れませんでした。
合格ラインは7割なので、140点を超えなければなりません。
しかも他の同級生は全員合格で、私だけが不合格になったという結末です。
小学校の時に誰にも負けないくらい漢字テストの成績は良かったのですが、漢検に必要な勉強は別物です。
合格に必要な勉強を一切放棄して受かるはずがありません。
かつて学年一の成績を出した私でしたが、逆転して自分だけが取り残されてしまったような無気力感や屈辱感を得ることになったのです。
そのような快の経験と、苦の両極端な経験をしたことで、もう一度漢検にチャレンジして自信を取り戻したいという目標を立てることができました。
私の資格道の原点が漢検だったのです。
それからしばしの時間が経ちましたが、今、「自信がない」と将来を憂いている若者を前にして、当時の自分をふと思い出してこの記事を書いてみたところがあります。
では、「現在の自分が自信あるのか」どうかと尋ねられたら「あります!」とは胸を張って言えない私がいます。
「おいおい、あれだけ過去の話をしておいて、それから自信を取り戻したってオチじゃないのかよ」と拍子抜けされた方もおられるかもしれませんね。
私は自分の今の生き方に自信を持って「OK」と思えるかどうかと言ったら、そうでもないと思えるくらい、日々悩み、自分の弱さや無気力感を幾度となく痛感しながら過ごしています。
私も何度も自信を持とうと試行錯誤しましたが、今現在、そう簡単に確固たる自信を手にすることはできていません。
正確には、自信がある瞬間も時々あるが、ない時も多いという移り変わりがある感覚です。
「自信を持たなければよりよく生きていけない」という前提を置くと、どうしても生きづらくなってしまうと感じています。
そもそも「自信」という感覚は、その時、その瞬間の状況や、世の中の趨勢によって、変化し得るものではないでしょうか。
例えば、私が冒頭に挙げた若者を就職に導くという目的が果たせたとしても、別の若者に同じやり方で実績につなげられるかどうかと言ったら別物です。
かつて結果を出せた「どんな問題集でも一冊反復学習すれば絶対合格できた資格試験の勉強法」が、いつの時代も通用するのかどうかと言ったら、必ずしもそうとは言えないことを、公認心理師試験の失敗体験からも痛感しています。
これだけ変化の激しいこのご時世では、昨日まで自信を持てたことが、明日には通用しなくなったり、自分を上回る者がでてきて自信を持てなくなってしまうなんて経験が何度でも押し寄せてくるものだと思っています。
だから、「自信があること=生きることに必要なこと」と固定観念を抱いてしまうと、今を大切に生きることを見失ってしまうように私は感じているのです。
たとえ自信を持てる機会が少なくても、「こんな自分はいいな」と思えるような瞬間や対象があることが大事ではないでしょうか。
それは、自分の視点だけではなくて、もしかしたら周りの誰かからかけてもらった言葉や評価だったりするかもしれません。
そういう意味でも、資格試験は結果がはっきりと出ますので、合格することで、絶対的な自信を心から持てるかどうかと言うよりも、自分が頑張ってきたことの成果が形として残る貴重な対象でもあります。
自信を持てても持てなくても、資格に合格することで、就職や転職をできるようになる要件が増えたり、日常生活で実践できるようになる効果を体感できるメリットがあります。
長くなりましたが、自信を失っているからこそ、資格試験に挑戦することをお勧めしたいです。
私自身は20以上の資格試験に合格できたことで、「良かった」と思えるような場面が増えていますし、まだまだ終わらせるつもりはありません。
弱い自分や無知の自分を認められたからこそ、そんな自分を補うために資格試験に挑戦できたモチベーションとなりました。
正解のない世界で日々悩み続けていますが、かつて合格した社会福祉士資格を根幹にして、現場で仕事を続けています。
遅咲きでも、自信を強く持てなくても、人生の最後の瞬間に、「これで良かった」と振り返ることができる人生を創れればと思っています。
合格を果たして新しい世界が広がった後に、あなた様の声をぜひ聴かせてくださいね。
続く