絶望のとなりに誰かがそっと腰かけた。
絶望はとなりの人に聞いた。
『あなたはいったい誰ですか?』
となりの人は微笑んだ。
『私の名前は希望です』
【一生使える】やなせたかし先生~後世に残したい名言~アンパンマン作者 より
国民的ヒーローであるアンパンマンの原作者であるやなせたかしさんは、決して順風満帆な人生を送っていませんでした。
絶望と孤独の連続であったと言えるでしょう。
やなせさんがまだ5歳の頃、実の父は中国で単身赴任中に風土病に罹り、32歳という若さで急死しました。
小学校2年生の時に、母が再婚したことで、先に養子になっていた弟が暮らしている伯父さんの家に引き取られました。
弟は成績も優秀で、運動神経も良く、正反対なやなせさんは常に劣等感を抱いていたようです。
やなせさんも弟も、徴兵制により、学生時代に戦争に参戦しましたが、弟は22歳で戦死しました。
無事に生還した後のやなせさんは、三越等のサラーリーマン生活を経て、34歳で漫画家デビューをしました。
しかしながら、手塚治虫や石ノ森章太郎の影に隠れてしまい、頭角を現すこともなく、漫画以外の仕事依頼を何でも受け入れる便利屋として長い間生計を立ててきました。
ご自身は、デビューしてから50歳くらいまでの10年以上の間、失意と絶望の連続を痛感していたようです。
自分は何をやっても中途半端で二流で、もう売れることはないから引き際だと極限状態に陥った時に、アンパンマンがヒットしたのです。
アンパンマンの登場は、やなせさんが54歳の時で、絵本として世に産声を上げました。
しかし、周りの大人の批判の声が散々寄せられたようです。
評論家や保育士の先生達から、顔をちぎって食べさせるのは残酷だと指摘されてきたのです。
やなせさんにとっての正義とは、「貧困に陥っている人間を喜ばせること」でありました。
自身が戦争に赴いた経験や、数々の職務を通して肌で感じたことから生まれた揺ぎ無い考えです。
やなせさんは、それまでの半生から、人に優しくするには、自分の犠牲がつきものだという考えを貫きたかったので、自分の顔をちぎって困っている登場人物を救っていたのです。
大人達には誰一人として認めてもられなかったものの、他でもない子ども達から絶大な評価を得て、シリーズは続々と追加されて、やなせさんが還暦間際の時にTVでアニメ化されました。
それからアンパンマンは爆発的に人気が広がって、やなせさんが亡くなる94歳まで、打って変わって仕事が大忙しになりました。
やなせさんは自身の人生を振り返って、大器晩成ならぬ小器晩成と例えています。
天賦の才能がなくて、モテずに、売れない自分が朽ちずに達成できたのは、諦めずにひたすらやり続けたからだと評しています。
50歳を前にして、同世代のサラリーマンは、部長代理くらいになっている時期なのに、やなせさん自身は依然として深い絶望という闇に覆われていました。
そんな最中に、大先輩の漫画家である杉浦幸雄さんから「人生は一寸先は光だよ。途中でやめっちゃたら終わりだよ」と励まされて、救われたようです。
漫画の注文が来なくても、時間はたっぷりとある分ひたすら自分が好きな絵を描き続けばいつか必ず日は差し込んでくる。自分の可能性を信じて注文もないのに続けたことで、開花されたのです。
そしてやなせさんは、人生を満員電車という風にも解釈しています。
手塚治虫は18歳、石ノ森章太郎は高校2年生でメジャーデビューを果たしている中、30代前半で競合ひしめく漫画業界に首を突っ込んだやなせさんは、いくつもの電車に乗り遅れてやっと乗り込んだものの、すし詰め状態でとても座る席はなかった状態でした。
けれども、耐えに耐えていると、次々に人が降りていってやがていつかは席が空くのです。
92歳の時点で人生を回顧してみて、若い頃の便利屋の経験は何一つ無駄ではなくて、絶望を味わった方が底力を蓄えられると残しています。
やなせさんが作詞をされたアンパンマンマーチや、名曲「手の平を太陽に」があれだけ深いのも、やなせさんの人生の軌跡が刻まれているからなのです。
やなせさんは、自分は非凡であるが、人に喜んでもらうことを追求したことで、運に恵まれて、結果として世に認められるようになったとも振り返っています。
80歳を超えてからの人生が最も面白いし、異性にもモテはじめて今が青春ともおっしゃっています。
アンパンマンという善の存在には光があって、バイキンマンという悪の存在には、陰がある。
つまり、対立するもの同士は表裏一体のように存在している。
人生も同じようなもので、絶望の隣には希望がある。
やなせんさんの珠玉のメッセージからは、一寸先は光であることが嘘ではないことを教えてもらえます。
参考文献