現代社会は個性の時代と言いますが、実際には変わり者だと評されていることに劣等感を覚える人間の方が多いでしょう。
自分の性格や生き方が、周りと比べて変わっていることに悲観して、どうしようもない孤独感を抱えている方も少なくはないのです。
しかしながら、そこで絶望することはありません。
たとえレールを外れてしまっても、社会から取り残されてしまっても、きっかけ一つで人生はやり直せることができるのです。
その個性や歩んできた道を強みに活かせば、誰にもマネができない生き方を築けるかもしれないのだから・・・・・・。
今回は、絶望と孤独の世界から脱却した、二人の有名人の半生を紹介したいと思います。
一人目は、2011年にメジャーデビューを果たした「SEKAI NO OWARI」のボーカル兼ギター担当の深瀬慧さんです。
プライベートでは、きゃりーぱみゅぱみゅと破局を迎えられたことでも話題に上がりましたね。
デビューするまでの背景は前途多難なものでした。
深瀬さんは、先天性のADHDという発達障害を抱えていたようです。
幼少時代からパニックを起こしていたようで、中学校時代はケンカを繰り返すかさぼってしまうかで、ほとんど不登校だったそうです。
高校は1年で中退しています。
そしてそこから、深瀬さんは人生を変えるために1年間アメリカンスクールに通って、その後2年間のニューヨークへ留学に行くことになります。
しかり、精神的に不安定になってしまい、すぐに帰国して精神科病院に入院します。
その時の心境を深瀬さんはこう述べています。
「もう学歴も、得意なことも何にもない、そんな状態で自分に残ったものは、病気と、強い薬と、出られない――閉鎖された病棟っていう。」
深瀬さんは入院中に精神医療の現場を目の当たりにして、カウンセラーを目指そうという新しい目標を立てて、予備校に通いながら大検、大学受験を目指したそうです。
しかし、薬の副作用もあって勉強した内容が頭に残らなかったそうです。
予備校からの帰り道が分からなくなってしまうほどになってしまい、ここで受験を諦め、自分の人生はもう終わったと感じたようです。
そんなどん底で残ったものは、音楽であることに気づきました。
そこからが深瀬さんの人生のターニングポイントです。
幼稚園、小学校、高校の幼馴染だった仲間達を集めて「clubEARTH」の建設に着手しました。
「自分にはもうこれしかない」という覚悟の気持ちで再始動していたようです。
バンド結成の由来の1つは「終わるのは悲しいから終わりから始める」というものがあるそうです。
だからバンド名は”世界が終われ”というネガティブな理由ではなく、ポジティブな意味でつけられた名前のようです。
どん底に落ちてから初めて見えた新世界です。
転生の鍵は、音楽と言う一つの道に一生を捧げる覚悟を決めたことと、同じ志を持つメンバーの存在でした。
参照:【SEKAI NO OWARI】セカオワ・深瀬慧の英語力をTOEIC講師が検証!~ADHD(学習障害)でも英語は身に付く~
そして、二人目にご紹介するのも、セカオワと同じく2011年にデビューしたアイドルグループ「でんぱ組.inc」のメンバーの最上もが さんです。
私は彼女が「ウルトラマンギンガ」に出演していたことで、その存在を初めて知りましたが、彼女の意外な半生は後になって知りました。
未熟児で生まれ、体が弱く[要出典]、また学校での人間関係(クラスの女子生徒達からどこかしらのグループに所属することを求められるなど)に嫌気が差したことなどもあり、過去に8年間程引きこもってネットゲームをしていた時期がある。
「笑えないれべるのネトゲ廃人でした。」と自ら述べた[4]。
"ミラクルニート"の兄と"腐女子ニート"の妹がおり、兄弟全員ニートだった時期もある[5]。
ネットゲームの中では女性であるとなめられるために、男性キャラを使用して「ぼく」と名乗っていたが、その名残で平時からの一人称も「ぼく」となっている。
この一人称がキャラ設定と言われることについて、Twitterで「これがキャラならもっとましなキャラ設定にするわ笑」と言及している。
でんぱ組.incに加入した理由は、妹を養いたかったため[要出典]と、父親がリストラされてしまったことで、社会に出なければならないと感じたから。
《意外と知らない?》 でんぱ組.inc 最上もが(もがたんぺ)の過去~現在までを紐解いた。 より
ニートになる前に、美容室の創作撮りのモデルをやっていた経緯から、モデル事務所に所属していた時期があったようです。
モデル事務所を退社後に秋葉原のバーで働き始めるも深夜労働が祟って入院したようです。
ニート歴8年という長い歳月でしたが、彼女の転生のきっかけになったのは、外部とのつながりを遮断していないことからでした。
2011年に、最上さんの知人でありでんぱ組.incの衣装デザインを手掛けていたイラストレーターに誘われて、イベントの受付スタッフのアルバイトを引き受けていたところ、プロデューサーにスカウトされたようです。
私は3月14日に新宿ピカデリーで公開された劇場版ウルトラマンギンガSの初日舞台あいさつで、初めて実物の最上さんを目にすることができました。
印象的だったのは、「撮影の中で頑張ったことは何か?」という質問コーナーの答えで、彼女は、
「人と話すのが苦手だったけれども、頑張りました」
と素直に口に出していました。
深瀬さんも、最上さんも、決して他人には語れるような生き方ではなかったでしょうが、今ではその過去があったからこそ、多くの人間に支持されるような逆転の人生を歩んでいます。
先日、モデル兼俳優である栗原類さんも、自身が注意欠陥障害(ADD)を抱えていることを告白していました。
栗原さんは、8歳の頃に周囲の人間から指摘されて診断を受けたようで、
「早期に診断・治療したことで、自分の弱点や、できること・できないことがわかりやすくなった」
と、前向きに受け止めていました。
ご自身のブログでは、この告白によって伝えたいことが伝えられて温かい反応ももらえてよかったと振り返っています。
そして、今後の抱負と今回の告白を聴いたみなさんにこう語りかけています。
僕の行動に関して今まで面白いとバラエティで笑ってくれた方々、
僕が発達障害者だと知ったから”笑っちゃいけない”とは思わないでください。
僕が発達障害者であっても、そうでなくても僕は僕だし
僕の個性が人を笑わせられるほど面白いのであれば
それはコメディ俳優を目指している僕にとっては本望です。
これからの時代は、生まれつきのハンディや挫折にめげずに自己実現を果たす人間がたくさん増えてくると思います。
そういう人間の登場によって、偏見が薄れて行き、誰もが生きる希望を持てて、自分の殻を破る一歩を踏み出せる社会になれるように願って止みません。
他人から変わり者だと言われたり、引き籠ってしまうような先の見えない人生を送っていたとしても、そこで絶望することなく人とのつながりを絶たなければ、いつか開眼できるチャンスを掴めることを教えてもらえます。